ソマティック・エクスペリエンシング™︎
ソマティック・エクスペリエンシング™︎とポリヴェーガル理論 ――「体が安心すること」から回復は始まる
私たちはつらい体験をしたあと、「もう終わったことなのに、なぜか体が落ち着かない」「ちょっとした音にびくっとする」といった反応を経験することがあります。
それは心が弱いからでも、意志が足りないからでもなく、体の神経がまだ“危険”を記憶しているからです。
ソマティック・エクスペリエンシング(Somatic Experiencing、以下SE)は、この「体に残るトラウマ」に焦点をあてた心理療法です。
話し合いや思考の整理よりも、まず体が安全を感じることを目的に進めていきます。
開発したのはピーター・リヴァインという心理学者で、動物の本能的な防衛反応の研究から生まれました。
■ 神経の仕組みを理解する ― ポリヴェーガル理論
SEの背景には、「ポリヴェーガル理論」という神経科学の考え方があります。
これはスティーブン・ポージェス博士が提唱した理論で、人間の自律神経の働きを、従来よりも細かく理解しようとするものです。
私たちの体には、危険を察知して緊張を高める交感神経と、リラックスを促す副交感神経があります。
ポージェス博士はこの副交感神経の中に、さらに2つの異なる仕組みがあることを明らかにしました。
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腹側迷走神経系(Ventral Vagal):安心して人とつながれるときに働く。表情や声のトーン、アイコンタクトに関わる。
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背側迷走神経系(Dorsal Vagal):命の危険を感じたときに体を“シャットダウン”させる。極度の無力感、凍りつき、脱力などが起きる。
つまり、私たちの神経系は
①戦う・逃げる(交感神経)
②凍りつく(背側迷走)
③安心して関わる(腹側迷走)
という3つのモードを持っていて、状況に応じて自動的に切り替わっているのです。
■ SEが目指すのは「安全の神経」を取り戻すこと
トラウマのあと、人の体はこの切り替えがうまくいかなくなります。
本当は安全な状況でも、神経が「まだ危ない」と誤作動を起こしてしまうのです。
SEでは、この神経の働きを丁寧に整えていきます。
言葉で「大丈夫」と説得するのではなく、体が“本当に安全だ”と感じ直すことを目指します。
それはまるで、固く閉じていた貝の殻が少しずつ開いていくようなプロセスです。
■ 体のサインを感じ取る
セッションでは、まず自分の体にどんな変化が起きているかを感じ取るところから始まります。
たとえば、
・胸が締めつけられている
・呼吸が浅い
・肩に力が入っている
・逆に、体が重くて動きにくい
これらはすべて神経のモードを教えてくれるサインです。
「いま自分の体は戦っているのか、凍りついているのか、それとも安心しているのか」――その違いを感じ分けていきます。
多くの人は「感じる」ことに慣れていません。
けれども、体の声に耳を傾けることができるようになると、
「自分の中に起こっていることを理解できる」という安心感が生まれます。
これが回復の第一歩です。
■ 「安全の感覚」を取り戻す練習
トラウマ状態にある体は、ずっと“危険信号”を出し続けています。
SEでは、少しずつ体に「今はもう安全だよ」と知らせていきます。
たとえば、
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足の裏で床の支えを感じる
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椅子に座ったときの安定感に意識を向ける
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深い呼吸をしながら、体の中の温かさを探す
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安心できる人や場所を思い浮かべ、そのときの感覚を味わう
こうした小さな体験を通して、神経が「危険モード」から「安心モード」へと少しずつ切り替わっていきます。
これを神経生理学的に見ると、腹側迷走神経が再び働き始めている状態です。
安全を“頭で理解する”のではなく、“体で思い出す”ことが大切なのです。
■ 途中で止まってしまった「防衛反応」を完了させる
危険を感じたとき、体は本来「戦う」か「逃げる」準備をします。
けれど、実際には逃げることも抵抗することもできず、ただ凍りつくしかなかった――。
多くのトラウマ体験では、このように途中で止まった反応が体の中に残っています。
SEでは、体が安全を感じられる状態の中で、その未完了の動きを少しずつ“完了”させていきます。
たとえば、
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手を押し返すような小さな動き
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首を動かして周囲を確認する
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呼吸が自然に深くなる瞬間
こうした微細な変化を通して、神経系が「もう大丈夫、危険は過ぎた」と理解していきます。
それが体の深い部分での解放につながります。
■ 安心と不快の間を行き来する
SEでは、「安全」と「不快」の間をゆっくりと行き来することを大切にします。
これを「ペンデュレーション(振り子のような動き)」と呼びます。
神経が一気に解放されると、逆に再び不安や過覚醒が起こることがあるため、あえて“少しずつ”が基本です。
また、安心できる感覚や支えとなる体験を「リソース」と呼びます。
好きな音楽、家族の笑顔、自然の中の静けさ――こうしたリソースを思い出しながら、体の内側に安全の感覚を広げていきます。
これは、ポージェスのいう「社会的つながりの神経(腹側迷走神経)」を活性化させる行為そのものです。
■ 安心できる関係の中で
SEでは、セラピストとの関係そのものも大切な要素です。
落ち着いた声や穏やかな表情、相手が自分を理解しようとしてくれる態度――こうした人との関わりが、神経を「安心モード」へと導きます。
ポージェス博士はこれを「コレギュレーション(共同調整)」と呼びました。
人は一人では完全に落ち着けません。
他者との温かな関係を通じてこそ、体は安全を学び直していきます。
セラピストが安心した神経状態を保っていると、クライアントの神経系も自然とそれに同調していきます。
それが、SEのセッションで起こる“静かな奇跡”の一つです。
■ 「感じること」から回復が始まる
ポリヴェーガル理論は、トラウマを「神経の防衛反応」として理解させてくれました。
そしてSEは、その理論を実践の形にしたものです。
心の傷を癒すとは、忘れることではなく、体が安全を思い出すこと。
「感じることを取り戻す」ことで、凍りついた部分が少しずつ動き出します。
安全を感じる体があってこそ、安心して人とつながることができます。
つながりが生まれたとき、心は自然に回復へと向かいます。
SEはその道筋を、体という確かな感覚を通して導いてくれるアプローチなのです。