フラッシュテクニック
フラッシュテクニックとセルフ・コンパッションでトラウマを癒す ― エチオピアでのEMDRグループ療法PIPAプログラムから学ぶ ―
トラウマケアという言葉は、ここ数年で急速に一般化しました。
災害、戦争、いじめ、家庭内暴力、パンデミック——心に深い傷を負う経験は、誰の人生にも起こり得ます。
そして、そうした心の痛みに対して「自分をいたわりながら回復していく」ことの大切さを教えてくれるのが、近年注目されているセルフ・コンパッション(self-compassion:自己への思いやり)です。
しかし、トラウマの回復には、単なる「前向き思考」では届かない領域があります。
心の奥にこびりついた恐怖や無力感を、どうやって安全に癒していくのか。
その鍵を握るのが、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)と、そこから派生したフラッシュテクニック(Flash Technique)、そして新たに開発されたグループ療法PIPAプログラムです。
1. EMDRとは何か ― 脳の自然治癒力を取り戻す心理療法
EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing)は、アメリカの心理学者フランシーン・シャピロによって1980年代後半に開発された心理療法です。
トラウマによって脳の情報処理が停止し、過去の記憶が「生々しいまま」心身に固定されることが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や不安障害の根源とされます。
EMDRは、両眼の動きや左右のタッピングなど「両側性刺激」を用いて、脳内の情報処理を再び動かすよう促します。
これにより、記憶そのものを消すのではなく、記憶に伴う痛みや恐怖の感情を和らげることが可能になります。
まるで、心の中の「未処理ファイル」を自然に整理整頓していくようなイメージです。
日本でもトラウマ治療、災害支援、スクールカウンセリングなどで広がりを見せていますが、問題は「専門家が限られている」という点です。
個別のEMDRセッションは時間も人員も必要で、大規模災害や紛争地域では対応しきれません。
そこで近年、EMDRの原理を応用し、集団でも安全に行える方法が模索されてきました。
その最先端が、今回エチオピアで実施された「PIPA(Professional Intervention Program for Adversity)」というプログラムです。
2. PIPAプログラムとは ― EMDRをベースにしたグループ療法
PIPAプログラムは、ブラジルのトラウマ臨床家エスリー・カルバーリョ(Esly Carvalho)らが開発した**AIP理論(Adaptive Information Processing)**に基づくグループ介入です。
AIP理論とは、脳が本来持っている「情報を処理し癒やす力」が、トラウマによって停止してしまうという考え方で、EMDRの中心的理論でもあります。
PIPAは、EMDRの要素をそのまま生かしながら、より短時間・安全・文化的に柔軟な形で実施できるよう再構成されています。
構成要素は次の3つです。
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Pillars of Life(人生の柱):自分の人生の中のポジティブな体験を思い出し、内的な支えを取り戻す。
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Flash Technique(フラッシュテクニック):トラウマを直接思い出さずに、感情の痛みを和らげる。
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Quadrants(四分法エクササイズ):トラウマを象徴的に描きながら、未来志向で再統合していく。
この3つを組み合わせることで、個人の安全を保ちながら**「心の再処理」→「意味の再構成」→「未来への希望」**という心理的回復プロセスを一気に進めることができるのです。
3. エチオピア内戦の中で ― 220人が参加したトラウマ回復の試み
2020年から2年間、エチオピアでは激しい内戦が続きました。
多くの人が飢えや暴力、家族の喪失、性的被害、避難生活といった極限状態を経験しました。
本研究では、そのような状況を生き延びた220名以上の成人(主に男性)を対象に、PIPAプログラムが実施されました。
期間は2〜3日間。
初日はトラウマの仕組みやストレス反応についての心理教育を行い、呼吸法や筋弛緩法などの安定化トレーニングを実施。
その後、3つのワークを順に体験していきます。
言語や民族の違いから当初は不信感も強かったといいます。
しかし、「人生の柱」を描き、互いの過去の良い思い出を共有する過程で、参加者の間に笑顔と対話が戻っていったと報告されています。
敵対していた民族の人々が、絵を通して「人としての共通点」を見出す様子は、まさにセルフ・コンパッションと他者への思いやりの回復を象徴しています。
4. フラッシュテクニックの効果 ― 苦痛を思い出さずに癒す
PIPAの中核を担うのが**フラッシュテクニック(Flash Technique)**です。
これは、EMDRの準備段階から独立して発展した新しい方法で、「トラウマを直接語らなくても心の痛みを軽減できる」という点で注目されています。
やり方はシンプルです。
まず、心の中にある辛い記憶をそっと「癒やしの箱」にしまうイメージをします。
その上で、「好きな食べ物」「楽しかった旅行」「ペットとの時間」など、ポジティブで安心できるイメージ(PEF:Positive Engaging Focus)を思い浮かべます。
治療者が「フラッシュ」という合図をしたら、3回まばたきをしながら軽く両手でタッピング。
これを数回繰り返すうちに、辛い記憶を思い出さなくても心の緊張がゆるんでいくのです。
エチオピアでの結果では、フラッシュテクニック前後で苦痛度(SUDS)が平均8.5から1.2に下がり、効果量は驚異的な3.88(非常に大きな効果)を示しました。
つまり、ほんの数分の介入でも、脳のストレス反応が劇的に落ち着いたのです。
5. 人生の柱(Pillars of Life)とセルフ・コンパッション
Pillars of Lifeは、トラウマケアにおける「レジリエンス(回復力)」を育てるワークです。
自分の人生を年表に描き、支えてくれた人、成功体験、幸福な瞬間などを思い出します。
それは、トラウマで失われがちな「自分は無力だ」「価値がない」といった自己否定感に対し、
**「それでも自分は生き抜いてきた」「助けてくれた人がいた」**という現実を思い出す行為でもあります。
まさにこれは、セルフ・コンパッションの実践と重なります。
自分の痛みを否定せず、「苦しかった自分を抱きしめるように思い出を眺める」こと。
他者の優しさを思い出し、再び人とつながる感覚を取り戻すこと。
それが、トラウマ治療の第一歩であり、心の回復を支える「心理的免疫力」となります。
6. 四分法エクササイズ(Quadrants)― 過去から未来へ
フラッシュテクニックで感情的負荷を軽くした後、参加者は紙を4つに折り、それぞれに絵や言葉を書き込みます。
最初の象限には「苦痛な出来事」、次には「今の自分」、そして最後には「未来の自分」を描きます。
このプロセスを通じて、人はトラウマの記憶を再構成し、「あの出来事があったからこそ今の自分がある」と新しい意味づけを見出していきます。
Quadrants実施後のSUDSは平均8.4から1.6に下がり、こちらも非常に大きな改善を示しました。
つまり、PIPA全体を通して、感情の鎮静だけでなく意味づけの再編が進んだと考えられます。
7. データで見る効果 ― PTSD症状が半減
研究では、標準的なPTSD尺度である**PCL-5(Posttraumatic Stress Disorder Checklist)**を用いて評価されました。
結果は次の通りです。
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平均スコア:38.6 → 20.6(p<0.00001)
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PTSD診断基準該当者:67.6% → 19.2%
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効果量:Cohen’s d = 1.24(大)
たった数日のプログラムで、3人に2人が「PTSD基準を下回る」まで回復したという結果は、トラウマ介入として画期的です。
しかも、大人数で行っても副作用的な反応(フラッシュバックや取り乱し)はほとんど起こらなかったと報告されています。
8. 心の安全とセルフ・コンパッションの融合
PIPAの特徴は、トラウマ処理のプロセスに「安全」と「優しさ」を組み込んでいる点です。
多くのトラウマ療法では「記憶を思い出す」ことが中心ですが、PIPAでは思い出さなくても癒される。
つまり、セルフ・コンパッションの姿勢そのもの——「自分を責めず、痛みを無理に掘り返さない優しさ」——が治療構造の中に組み込まれているのです。
特にFlash Techniqueは、強いトラウマを持つ人にも安全に使えるため、
「トラウマを話すのが怖い」「泣いてしまうのでは」という不安を抱くクライアントにも向いています。
9. 教育と地域支援への応用
このPIPAの考え方は、心理療法の枠を超えて、教育現場や地域支援でも応用可能です。
たとえば日本の学校で問題になっているいじめ・不登校・自殺予防にも通じます。
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Pillars of Lifeを通じて、子どもたちが自分の「良い経験」や「支えられた瞬間」を思い出す
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Flash Techniqueで、不安やトラウマを「思い出さずに和らげる」体験を安全に行う
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Quadrantsで、「これからの自分」「未来の希望」を描く
これらを通じて、子どもたちが自分を責めるかわりに「自分を大切にする力(セルフ・コンパッション)」を育てることができます。
学校カウンセラー、教師、保護者が連携して行えば、個別面談に頼らない集団的な心の回復教育が実現するでしょう。
10. 今後の課題と展望
PIPAはまだパイロット研究の段階であり、長期的な追跡データはこれからです。
また、効果をもたらした要因が「どの技法に由来するか」の詳細な分析も今後の課題です。
それでも、この研究が示したのは、「人は集団の中で癒される」という事実です。
トラウマとは、孤立の記憶でもあります。
その孤立を「共有」と「優しさ」で包み込むこと——それがPIPAの本質であり、セルフ・コンパッションの実践でもあります。
結論 ― フラッシュテクニックが導く“やさしいトラウマケア”
エチオピアでの研究は、フラッシュテクニックとEMDRの理論を応用したPIPAが、
集団でも個人でも安全で深いトラウマ治療を可能にすることを示しました。
そしてそれは、「苦しみを和らげようとする優しさ=セルフ・コンパッション」が
心理療法の中心にあることを再確認させてくれます。
私たちは、トラウマを「忘れる」必要はありません。
ただ、その記憶が今の私を傷つけ続けないよう、やさしく抱きしめてあげればいいのです。
フラッシュテクニックやPIPA、EMDRは、そのための科学的で人間的な方法と言えるでしょう。