ソマティック・エクスペリエンシング™︎
ソマティックエクスペリエンシング™︎の未完了のトラウマ記憶
■はじめに
人の心と身体は、よく別々のもののように扱われます。心は気持ちや思考、身体は筋肉や内臓、といった具合に。けれど、恐怖・ショック・怒り・無力感といった強い体験をすると、心だけでなく身体にも“痕跡”が残ります。頭では「もう終わったことだ」と分かっているのに、身体だけがまだ危険の中に取り残されているような感覚。理由もなく胸が締め付けられたり、肩が固まったままだったり、眠りが浅かったり、突然の物音で体が跳ねたりする。
ソマティックエクスペリエンシング(以下SE)は、この“身体に残った痕跡”に丁寧に耳を澄ませながら、心と身体が本来の安全な状態へ戻っていくのを助ける方法です。その中でも大切なテーマのひとつが「未完了(Incomplete Response)」という考え方。
ここでいう未完了とは、単なる「やり残し」ではなく、本来身体が自然に行いたかった反応が途中で止められてしまった状態を指します。
逃げたかったのに逃げられなかった。
叫びたかったのに声が出なかった。
拒否したかったのに固まって動けなくなった。
身体はその時に必要だった行動を最後までやりきれず、まるでブレーキを踏みながらアクセルを踏んでいる車のように、内部にエネルギーを抱え込んだまま止まってしまいます。この「止まったままのエネルギー」を丁寧にほどいていく、そのための方法が“未完了への対処”です。
―――――――――――――――――――――――――
■なぜ「未完了」が生まれるのか
私たちの身体には、生き延びるための古い仕組みがあります。「闘う(Fight)」「逃げる(Flight)」「凍りつく(Freeze)」という反応です。動物が危険に出会ったとき、これらの反応が電気スイッチのように素早く働きます。
たとえば野生動物なら、危険が迫ったら全速力で逃げたり、必要なら攻撃したり、どうにもできなければ身を固めて気配を消す。これは命を守るための自然な働きです。
ところが人間の場合、社会的な制約や状況によって自然な反応が抑えられることがあります。
◯ 子どもの頃、親に強い叱責を受けても反抗できない
◯ 事故の瞬間、体が固まって動けず衝撃を受ける
◯ 暴力やハラスメントを受けても逃げられない環境にいる
本当は走り出したかったのに走れない。
本当は拒絶したかったのに固まってしまった。
こうして本来なら起こるはずだった反応が“途中で止まったまま”体の内部に残ります。これが未完了です。
そして未完了の反応は、時間が経てば自然に解消するわけではなく、むしろ静かに潜り込み、慢性的な緊張や不安、疲労、感情の鈍さ、過敏さなどとして表に出てくることがあります。
頭で忘れても身体は覚えている。
SEは、この身体に残された記憶に寄り添うアプローチなのです。
―――――――――――――――――――――――――
■未完了を扱ううえでのSEの基本姿勢
SEには特徴的なスタンスがあり、それはテクニック以上に大切です。
①「身体は自ら回復する力を持っている」
SEは、セラピストが何かを“修正する”のではなく、身体がもともと持っている自然な回復力を引き出すことを目的にしています。
②「速さより安全」
強い体験を一気に思い出したり、無理に感情を出す必要はありません。むしろ、ゆっくり少しずつが大前提。
③「感情だけでなく身体感覚を頼りにする」
胸の温度、肩のこわばり、呼吸の深さ、背中の震え。こうした微細な身体の変化が道しるべになります。
―――――――――――――――――――――――――
■未完了に対処するための主なテクニック
ここからは、SEでよく使われる代表的な方法をいくつか紹介します。体験談のようにイメージしやすく書きます。
①オリエンティング(Orienting)
まず大切なのは「今ここに安全がある」と身体が確認できること。
セラピストはクライアントに、部屋の中をゆっくり見回すよう促します。明るさ、色、形、窓の外の風景。目で追いながら、身体がどんな反応をするかを静かに感じ取ります。
すると、多くの人は少し呼吸が深くなり、肩が下がっていくのを感じます。「危険はもう過去で、今は安全だ」と身体が理解し始めるのです。
それは未完了を扱うための土台づくり。安全がなければ先に進まない、というSEの哲学がここにあります。
②リソース(Resource)
リソースとは「自分を安心させてくれる存在や感覚」。
・大切な人
・好きな場所
・温かい毛布の感触
・ペットの記憶
・体の中で心地よい部分
これらを思い出したり、感じたりすることで、身体に“支え”ができます。未完了の体験に触れても押し流されずにいられる力が育ちます。
③タイトレーション(Titration)
未完了の体験に一気に触れず、ほんの一滴ずつ近づいていく方法です。
たとえば事故の記憶がある人なら、事故全体を思い出すのではなく、「衝突音の前の静けさ」「ハンドルの冷たい感触」など、ごく小さな断片だけに触れます。
すると身体は微細な反応を示します。
喉がすっと締まる
手が少し冷える
呼吸が浅くなる
その小さな変化を感じたら、すぐに離れてリソースに戻る。
近づく
離れる
また近づく
このゆっくりした往復が、内部に滞っていたエネルギーを安全にほどく鍵となります。
④ペンデュレーション(Pendulation)
“揺れ戻り”とも呼ばれるプロセス。
不快な感覚→心地よい感覚
緊張→ゆるみ
この行き来を繰り返すことで、身体は「極端な緊張」から「自然なバランス」へ戻っていきます。まるで凍っていた湖が少しずつ解けていくように。
⑤マイクロムーブメント(微細な動き)
未完了には、「本当は動きたかった身体」がよく関わっています。
逃げたかった
押し返したかった
振りほどきたかった
セッションでは、数ミリの手の動きや指先の開閉など、非常に小さな動きを丁寧に感じていきます。動きが解禁されると、身体の奥に残っていたエネルギーが自然にほどけ始めることがあります。
⑥コンプリ―ション(Completion:完了)
ゆっくりとしたプロセスを経て、身体が本来やりたかった動きを最後までやり遂げる瞬間があります。
逃げる動きをイメージしながら足に力が戻る
拒絶するように手が前に伸びていく
体幹が自分を支える感覚が蘇る
涙が出たり、深いため息がこぼれたり、震えが走る場合もありますが、それは“解放”の兆し。身体が凍った時間を動かし、未完了に終わっていた反応が“完了”へと向かうのです。
―――――――――――――――――――――――――
■未完了がほどけていくと何が起こるのか
未完了が解消されると、ドラマチックな変化というより、静かな回復が訪れることが多いと言われます。
・呼吸が深くなる
・肩や首の緊張が自然に軽くなる
・突然の刺激に過剰反応しなくなる
・眠りやすくなる
・感情が自然に動く
「生きている感覚が戻った」と表現する人もいます。
身体はいつも今を生きています。過去を抱え込んでいた身体が今に戻ってきたとき、人はようやく人生を再び進めるようになります。
―――――――――――――――――――――――――
■SEは何を“しない”のか
SEは、感情を無理やり吐き出させたり、大きな号泣や激しい回想を目指すものではありません。むしろ強すぎる刺激は逆効果になることがあります。
ゆっくり
安全に
小さなステップで
これがSEの核となる姿勢です。
―――――――――――――――――――――――――
■最後に
未完了を抱えている人は、自分が弱いわけでも、間違っているわけでもありません。
あのとき――
身体はできる限りのことをして
あなたを生かしてくれた。
止まってしまった反応は、失敗ではなく“生存のための最善だった証拠”です。
SEは、その止まった時間を急かさず、責めず、身体のペースに合わせてほどいていきます。
ゆっくりでいい。
少しずつでいい。
身体は、必ずあなたの味方です。